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2007-04-07

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 19世紀、その最終日。虎がいて、エリザベスがいた。

 雨が降っていた。そこは、インダス川をひたすら遡上する北の地で、バスゴーの町をさらにヒマラヤに向けて歩いた山林の中だ。そこで、エリザベスは虎を追っていた。あるいは、そこで、虎もエリザベスを待っていた。だから、山中の岩肌のむき出しになった縁の下、なだらかな湧き水がこんこんと湧き出る「主の泉」にて一人と一匹が出会う。日が沈もうとしていた。

 西日を浴びた木々が逆光となって影の柱と化すと、エリザベスを覆い囲む。その様に、まるで檻の中に閉じ込められた心地を覚えると同時に、彼女は不敵な表情でふっと微笑い、虎に向かって内心で呼びかける。

 ――さあ、もう逃げられないわね?

 虎が、うううう、と呻き、真っ赤に染めた口許を傾げてみせる。唾液がだらだら垂れた。それから、フシュ、フシュと、くしゃみのような息を吐いて、頭を振る。その仕草から見て、体液の分泌が狂っていることは明らかだ。経絡のバランスが狂った吸血鬼にはよくあること。エリザベスが、「やはりこの虎か」と確信を得る。

 この虎――近隣住民からは「森の悪魔」「山の王」「美食家」と呼ばれているモノ――は人喰い虎である。もう三十年以上もその名をナらしている。しかし、当時は異名をもっておらず、これらの通称が用いられるようになったのは近年のことだ。

 最初に襲われたのは山の麓の集落に住む老婆で、彼女は山菜取りに向かったあと、喰われた。〝食いで〟がなかったのか、骨までしゃぶりつくされていた。かろうじて身元が分かったのは、バラバラに食い散らかされて死骸のそばに落ちていた、老婆の孫がその日の朝に手渡した死んだ鳥骨を組んで作った首飾りのおかげだった。

 発見したのは、やはり同じ集落の者で、冬に備えて山の獣を狩っていた途中だった。

「おばあちゃん!」

 たった一人の家族=孫は絶叫した。発見者から首飾りを受け取って泣き崩れたあと、孫は村の男たちにすがった。

「仇をとってよおお!」

 ところで、この孫は美しく、美しい少女の大粒の涙に男たちはテキメンやられてしまった。華奢な体つきだが、そのわりに胸と尻がズズイ、と盛り上がって大きく、顔立ちも整っていて、頬にはポロポロと止めようのない涙を流している。哀れに思うと同時に「ああ、こいつとヤりてえ」と皆が思った。「ていうか、ヤらしてくれるんじゃねえの? 虎、ヤったら、よ?」

 要するに、一撃だった。股間(リビドー)に直撃したのだ。

「おっしゃ、任せとけ! オレ/わい/ぼく/わたし/ワシがやったらあ!」

 孫は優しく分け隔てなかったので、あらゆる村の男たちがあらゆる武器を手にして家を飛び出すと、虎狩りに走った。

「見てろ! でっかいの獲ってきたるわぁ! ――だから、な? 頼むぜ、スゴイのを、よ?」

 そして、全滅した。

 なんとか一人だけが帰還したが、すでに虫の息となっており、「逃げても逃げてもよお、どこまでも追ってくるんだ。森のどこからでも追ってくるんだ。悪魔だぁ、悪魔なんだよぉ」が末期の言葉となって、虎狩りツアー最後の参加者も消えた。

 残された女たちは当然、明日の生活について恐怖し(なにしろほとんど自給自足の村なのに、果実などの収穫が見込めない冬がじき迫っているのだ)、絶望し(老人や子供をどうするか鬱鬱と額をつき合わせて真剣に相談するものもいた)、最後には狂乱し(誰かが「そうよ! そもそもといえば!」とヒステリックに叫んだことがきっかけとなって)、事の元凶である孫を集団でよってたかって惨殺すると、ただちに領主の下に走った。

「助けてください! あの『森の悪魔』を退治してください」

 訴えを聞いた領主は困った。二重の意味で、だ。正直、その集落は土地が貧しいし、道も遠いしですこぶる実入りがよくなかったのだ。

 つまり、助けても、あまり価値がないと判断していた。しかも、働き手が全滅してるとあってはますます価値を減じざるを得ない。

 しかし、領主は武士カーストに位置しており、数年前の日露戦争における、あの同じアジア人による欧米列「悪」に対する目覚しい勝利を一つのきっかけとして盛り上がりつつあるインド国内の動き=独立反英(サワデーシ)運動、その参加者でもあって、つまりナショナリストだった。

 だから、と領主は思う。責任があって、愛国者。だったら、国民の窮地は救わなくちゃならんな、と領主は考える。でも、

「虎、じゃと? 人ではなく? 英国人による搾取ではなくて?」

 なんじゃ、それ。わしゃ、こう、もっと、世の中のためになることをしたいんじゃ。

 なのに、虎とな!? いやいや、しかし、領民のためには――

 と、二重に三重に困り、堂々巡りを繰り返す。執務中も読書中も食事中も就寝中も、延々と。

 幾日か経って、違う村からの先日の村と同じ訴えだった。今度は山の上に巨大な虎が現れて、木々をなぎ倒しながら、村人三十人を喰らったと。

「助けてください。あの『山の王』を退治してください!」

 さすがに見過ごせないと感じたが、それでも領主は立ち上がることなく、椅子にどっかり座ったままだった。

 なぜか?

 悩みがますます増えたと感じていたのだ。

 そんな恐ろしい相手となると、いよいよ兵隊を連れて行かなきゃならん。しかも、あの森は広い。平たい山のすそから頂上まで全部、森じゃ。運がよければ、さっさと終わるじゃろうが、運が悪ければどうなる? もうじき冬が来るんじゃぞ? わしや兵どもの寝床は? 食い物は? 暖をとるにはどうすればいい? 臨時収集をかけるから、兵隊には別に手当も出さないといかんじゃろうし、とにかく金がかかる。それは困る。困るんじゃ。

 これからインドのために戦わなきゃならんのに、たかが小さな村のためのそんな出費がかさむのは良くない。ムダ金じゃ。

 そんなことをブツブツと呟くある日の午後、川沿いの村から運ばれてきたリンゴの切り身にフォークを刺していると、食堂の扉が開かれた。

「お父さん! 話は聞きました。僕に任せてくださいよ!」

「おお、お前か!」

 現れたのは、領主ご自慢の一人息子である。学校の高等過程を終えて帰ってくる途中で、人づてに領民の窮地を知って、いてもたってもいられなく急いで帰郷したみずみずしい若者である。

「虎、ですって? 恐ろしい虎! 人喰い虎! でも、心配いりませんよ。学校では銃も習ってきました。最新鋭のライフル銃。これからは銃の時代ですよ。騎士は終わりました。僕は、軍人です!」

「おお、おお、なんと頼もしい。けれど、息子や。忘れてはいけないよ、武士の魂を!」

「もちろんです!」

 傍で控えていた使用人は、「何を言っているのだろう? この方たちは」と首を傾げていたが、ともあれ、この親子のみに通じる得体の知れない対話の後、領主の息子は件の森へと颯爽と乗り出した。

 武士カーストであるゆえの勇猛さで、付き人を従えて森に入り――被害に逢った住民は「ああ、若様はビジュヌじゃあ、ビジュヌの生まれ変わりなんじゃあ」とか「あのヤロウにガツンと言わしたってつかあさいとか」とか「きゃーきゃーステキー」とかの声援で背中を押して――、案の定、食われた。

 バグンッと頭からやられたらしく、額の辺りに壮絶な噛み跡があった。

 また、太ももやふくらはぎ、内臓、肩から背中にかけての部位に、頬の柔らかいところや掌など、美味いところは洩れなく食されていた。(以後、好みの激しい喰い方をするようになり、間もなく虎は「美食家」と呼ばれる)

 皮をブチブチひきちぎって、爪であちこちの筋をほぐしながら、食べたようで、領主の息子の死骸は原形をほぼ失っていた。かろうじて正体が分かったのは、身につけていた服があまりにも豪奢で、森を歩くには相応しくないものだったからにすぎない。

 奇怪だったのは、潰れた断面のほとんどがぬらぬらとした生肉のようにてらてらしていて、つまり、流血がほとんどなかったことだ。というよりも、死骸からにはほとんど血の気が失せていた。これまでの被害者はすべて丸ごと喰われていたので、分からなかった事実だ。

 大事な大事な一人息子の訃報を聞いた領主は、ただちに息子を弔うべく、村に急行した。自動車(インド製)の後部座席に揺られる間も、広場に降り立った時も、憤怒と絶望の入り混じったやるせない貌だった。村長の家に案内され、棺に入れられた息子を見た瞬間、その貌が崩れた。

「息子よーーーーーーーーーーーっ!」

 ただちに亡骸にすがりついて放った絶叫は、村中にこだました。村民は震え、領主の怒りを恐れた。若様が亡くなられたことが我々のせいだといわれたら? きっと村は滅びてしまう。村民は皆、不安を感じていた。固唾をのんで、領主の出方を待った。

 しかし、幸いにも領主の怒りの矛先はあくまでも森の中に向けられていた。

「おお、おおおお……おおのれええ、もはや許せんぞ! 虎め。虎めが! ……息子よ! 必ずお前の仇をとるからな。武士の名誉にかけて。これは魂の問題だ」

 ただちに兵を集めなくてはならん。そう思い、葬儀の支度を済ませるべく、立ち上がろうとしたまさにそのとき、

「……さん」

 ぴくり、と息子の身体が痙攣した。

「おと……」

 領主は戦慄した。目の前の光景を信じられないとばかりに首を振って、それでも血走った目の玉は一点に集中して微動だにせず、

「……さん」

 彼は最愛の息子の復活を目撃している。

(続)