JOJO1.5 本文アーカイブ このページをアンテナに追加 RSSフィード

2007-04-14順次更新中

[] slap1-3  slap1-3 - JOJO1.5 本文アーカイブ を含むブックマーク


 虎は名前を<あわれみ>と云い、いつしか人を襲うようになった。虎に時間はないし、あっても<あわれみ>は数えてみようともしなかった。<あわれみ>にとって、自分が人間を喰うという習慣を身につけたことには、なにか深い事情があったのかもしれないし、なかったのかもしれない。問われれば、きっとこう答えるだろう。

 ――ワタシは何時の間にか喰べたくなったんだから、それでいいんじゃないか?

 <あわれみ>にとって、『吸血行為』とはもはやその程度のものだ。

 また、<あわれみ>と己に名づけた存在は、名乗る以前の記憶を持たない。ある日ある時、突然、そのように変容したのだ。その時の心地は生まれ変わったようだったと、記憶している。あるいは、本当に死んで、また生まれたのかもしれない。

 ただし、と<あわれみ>はおぼろげに思い出す。時折、食事などしながら、ふっと記憶のふちが頭をかすめる気がする。それはつかみ所のない、おぼろげな感覚で、「何者か」に出会ったような気がするのだ。夜の森、木々がざわめき、虫も鳴かない不思議な夜。その奥底にある洞窟にワタシが眠っていて、その「何者か」がやってくる。そして、ワタシに何かをして、去っていった、気がする。ひどい熱病にうなされて、それが収まった瞬間、ワタシが生まれた。そこからは鮮明だ。たちどころにワタシがワタシを作ったのだ、と認識したから。すでにその時から「何者か」は重要ではなくなった。ただ、喉が渇いていた。

 感覚が今までにないほど鋭くなっていて、特に嗅覚が尋常ではなかった。数キロ先の獲物の体臭すら嗅ぎとれた。森の――濃密な草木や土の――匂いの隙間に獲物がいて、もっとも手近な場所にいるニンゲンを意識した途端、たまらなくなった。いそいそと洞窟を這い出ると、草木を掻き分けて、一目散にニンゲンの許へはせ参じた。「えっ?」と兎をぶらさげたヤリをかつぐ若者の顔が忘れらない。最初の獲物。最初の血肉。とびかかると頭につかみかかって、勢いのまま押し倒してやった。そのまま首筋にめがけて牙を突きたてた。

 一心不乱にグチャグチャと喰らう音があって、腹もくちくなるとはたと気付いた。ワタシはニンゲンを喰ってしまった、と。それは森の掟を破るものだった、と。

 そうだ。虎が住む森には暗黙のルールがある。そこに生きるものが意識しないが、深いところで根付いている共通の概念だ。森には通常の生態がある。それは変化しつつも一定のところで歯止めがかかる仕組みのことで、例えば、枝木がすれあって起こる自然発火のため、森にぽっかり穴が空いても、そのうち繕われるといった自然の原理のことだ。そして、森の掟には、ニンゲンに近づくなという項目があった。虎は腹が減ると兎や鹿を襲って、喰うことは認められているし、蛇や昆虫を食うこともある。だが、ニンゲンは殺してはならなかった。ニンゲンは森の存在ではないためだ。それは当然、人道的な背景によるものではなく、本能による警告だ。

 かつて、外側の存在であるニンゲンを襲った虎がいて、その死骸をおこぼれとして、様々なものがつついたことがある。すると、ニンゲンが持っていた未知の病が、森の住民に感染し、ものすごい勢いで広がっていき、森の賑わいが回復するまではずいぶんかかったことがある。

 その経験が本能として受け継がれていて、掟となっている。だから、虎は恐れるのだ。ワタシはニンゲンを喰ってしまったのだ、と。

 掟は本能に刻まれたもので、それゆえに絶対だ。虎は住処にニンゲンを持ち帰ると、丁寧にその肉体を平らげた。腹は一杯だったが残すわけにはいかなかった。万が一の場合、災禍を己一匹に収めるにはそれしかなかったからだ。その時から、虎は、ワタシは<あわれみ>である、と自覚するようになった。今やっている自分の行為が、森の住民への、ニンゲンへの手向けだから、と。つまり、<あわれみ>にはすでに知性が生じていた。他者を思いやる想いがあった。掟は本能だったが、それを履行することは意思で選択していたのだ。

 一夜かけて骨のみになったニンゲンを<あわれみ>は見下ろすと、しばらく何事かを考えるかのように馴染んだ我が家を見回し、朝日が昇る前には森を出て行った。そうした知性ある振る舞いは、それまでの虎にはないもので、<あわれみ>は次に移り住んだ森でもやはり<あわれみ>だったが、ある時から<憤怒>と呼ばれるようになる。その時にはもう最初の殺人から37年が経っていた。


 37年後の夕暮れに、一人の少女が立っている。エリザベスは『吸血虎』を目の前にして、ふっと微笑うのだ。虎があまりに美しかったから。

 まず身体が大きい。でかい。足の太さからして数え年11歳のエリザベスの腰より太い。顔に至っては胴より大きいのだ。天に恵まれたというよりも、むしろ魔に魅入られたというべき巨躯は、年月を忘れたような艶のある深い毛並みで覆われていて、浮かぶ縞模様が異常な風格をかもしだしている。そんな魔獣が木と木の間からぬっと現れる姿は荘厳ですらある。山の中腹にある虎の住まい、<王の泉>は上部がへりになっていて、太陽が一日中差し込まない。夕暮れどきでいよいよ深まる影の中にいる虎が、口を開く。唾液がダラダラと流れ出て、それをいらだたしげにフシュ、フシュと息を吹いて、追い払う。その口許が真っ黒になっているのは、影によるものではない。こびりついた血のためだ。

 ――あなた、一体、どれだけ殺したの?

 エリザベスが内心で問う。それは義憤によるものではなく、単純な子供らしい好奇心だ。口にしていれば、多分、それを耳にしたのがまともな感性を持つ人間ならば、ぞっとするような発想だ。エリザベスは事の善悪を持たなかった。知らないわけではない。道徳は弁えてはいる。でなければ、人類社会の敵である吸血鬼と戦う道など選びもしなかっただろう。ただ、好んで手に取ったりしないだけなのだ。掌中の珠のように扱うことをしない。それは、ひとえに師の教えによるものである。

「敵対する相手の目的の是非も、性格も、生まれも育ちも、想いも行いすら、一切合財、何に対しても心を煩わせる必要など、ないのだ」

 だから、エリザベスは相手に対して、人間的な感想を思わない。自分が機械であればいいと思う。そう、正確な機械。相手が何を目指して、どんな存在で、どうやって生まれてなにをしてきて、どう考えどうするのかを知ったうえで、その全てをただ知るためだけに知る。機械のような純粋さで、ただストックする。相手を定める判断材料になどしない。事が決着したあとで、辞書のページをめくるように、事実として相手のことを思い出すことはするかもしれない。しかし、相手と対峙した瞬間は、肉体と精神を同調させ、身につけた呼吸法で最大限の波紋を生み出し、最小限の動作で動き、最速で繰り出すことだけがすべてとなる。機械のような正確さが欲しかった。頭脳から手足の指先にかけてすべてを統制できれば、理想的なのに……私ははるかに未熟だ。

 エリザベスは、師のようになりたかった。育ての親。自分と同じく――あるいは自分に先んじて――苗字を捨てたモノ。完成された達人。ストレイツォ。

 その時、ふっと不安がよぎった。この虎に私、勝てるかしら? と。師を思い出した途端、弱気が生まれた。虎は大きい、間違いなく強いだろう。これまで戦ってきたゾンビや第八位程度の下位の吸血鬼とは比べ物にならない。判明している限りでは第四位に属する「DIOの系図」。もしかすると、三位かもしれないとも。紛れもなく、怪物。虎の俊敏さと力強さには、吸血鬼としてのそれが相乗されている。爪の一撃で、木々をなぎ倒し、人間を引き裂く威力を持つ。

 勝てないかもしれない。と思った。まったく突然の心理だった。機械のようになりたいと少女は願う。しかし、「機械のような師・父」のことを思った瞬間、どこかで危なくなったら助けてくれるかもしれない、とすがるような気分が現れたのだ。先生。私を助けてくれるの? 助けて。先生。

 先生。

 それまでの不敵な気持ちがどんどんゆらいでいく。機械のようになりたいと思う気持ちは結局のところ、脆い気持ちの裏返しなのだ。ナイーブですぐ壊れる心理を自分で押さえ込もうとしている。エリザベスはまだ数え年で11歳。正確な誕生日が分かれば、10歳かもしれないのだ。どうしようもなく、幼い。天性の波紋使いとしての素養を持つが、短い年月が少女を縛り、低い経験値のままで、それでも時間などに縛られない存在と対峙することを求める。恐怖が身体を寒々しいものに変えていく。

 エリザベスの心が弱った瞬間、虎が一歩、前に出てきた。また一歩。また一歩と。不安が加速する。虎は大きい。何倍も大きくなったように思える。そして、私は小さい、と感じる。弱い。と。

 逃げたいという気持ちと、立ち向かわなきゃ、という気持ちが交差する。呼吸が乱れた。深く、それでいて速い、規則正しい拍律が喪われる。

 そこで<憤怒>が吼えた。エリザベスはビクリ、と傍目に分かるほど肩を震わせる。呼吸が止まった。

 虎がまっすぐに突っ込んでくる。影の柱がすっかり伸びていて、日光はエリザベスのいる所からはすっかり退散してしまっている。

 数え年11歳の少女が叫ぶ。まだ十分に幼く可憐な声で。

 師の言葉が頭をよぎる。 

「戦闘中、声を発するな。口を大きく開けばその分、呼吸が乱れる。歯をくいしばるより力も入らない。舌をかむこともあるし、異物を放り込まれるかもしれない」

 その瞬間にはもう、教えは頭から消し飛んでいた。

 

 それから、虎は50年を生きていて、その一度も無駄な殺生をしたことがなかった。ワタシは、と虎は自負する。ワタシは<あわれみ>なのだから。虎は知性にかけて誓う。ワタシは喰わない殺しはやらないし、喰うからには骨しか残さない。血肉すべてはきっちり食す。と。

 そして、<あわれみ>はいくつかの森を渡り歩き、やがて一つの山林で定住する。こんこんと沸きでる水源があり、山の中腹らしいなだらかさで、古代に起こった地すべりか隆起かなにかで断層が生じたのか、崖のように斜めに切り立つへりとなっていた。<あわれみ>は思う。ここはいい。崖が屋根のようになっていて一日中、影になっている。太陽で身を焼かれることがない。安心できる。苔むしてちょっとじめじめしているのさえ我慢すれば、いいところだ。ここで生きよう、と決める。間もなく、森が<あわれみ>という異物を受け入れると、恐るべき虎はニンゲン=森にとっての外部を定期的に襲い、森の総意が<あわれみ>に王の座を与える。偉大なる守護者である、と森が<あわれみ>を認める。それから、<あわれみ>は崖の下の<王の泉>を所有する。<泉>は実は森を流れる川の起点であり、図らずもそれが<あわれみ>の王権を証明する。夜間、森を闊歩してその事実を確かめた<あわれみ>はその瞬間、ワタシは頂点を極めた、と過信した。森の頂点に立った。と。吸血鬼の一つの本能として、世界を制覇した、と満足する。

 気をよくした<あわれみ>が祝杯代わりにと、帰りしなニンゲンを襲った。首飾りを身につけた老婆。

 数日後、怒濤の如く、ニンゲンが森に押し寄せてきた。そのニンゲンたちは、老婆の孫=美しい少女に懇願された男たちで、虎を探して、森を彷徨った。その多くは森の奥深くに入ってくるなり、沼に足をとられたり、崖から足を踏み外したり、はるか昔、彼らの先祖たちが罠として作った落とし穴にはまったりして、勝手に自滅した。

 その一方で、森は神経過敏となっていた。ニンゲンは、次々に進路上、邪魔な草木を伐採したり、食事のためのみならず、戯れに獣を傷つけたりすることも平気のようだった。矢で傷つけられた鳥の無残な姿が虎の視界をかすめた瞬間、虎は激怒した。己の権威が傷つけられたことに対する怒りであり、なにより<あわれみ>として接してきたことをないがしろにされたからだ。ニンゲンはやはり、と<憤怒>と化した虎が思う。ニンゲンはやはり殺すのが、いい。

 森がざわり、と騒いだ。間もなく追走が始まり、狩るものが狩られるものに転じた。一夜を経て、ニンゲンを全滅させた後、<憤怒>はそこで不可思議なことを発見する。すでに朝だ。日光を嫌う<憤怒>は住まいに帰ることができなかったので、適当な木陰で休んでいた。すると、殺したニンゲンの死骸のうち、いくつか食い残して野ざらしとなったモノから煙が噴き出しているのだ。

 何だ、これは? と<憤怒>は<疑問>となって目の前の景色を眺める。それから、ニンゲンが苦しそうな呻き声をあげる。耐え切れなくなって、身体を日光からさえぎろうと手を伸ばすのだが、その片っ端から煙となって溶けていく。

 そして、間もなく跡形もなく、死骸は消失してしまった。日光の差し込む中で煙が舞い、わずかにのこった黒煤のようなものも風に攫われて、無に帰る。

 知らない間に<疑問>は<恐怖>となり、これがワタシの行き着く『運命』か……と理解した。


 虎の顎は存分に振るわれた。通り道にあるものすべてを根こそぐような一撃だったが、エリザベスはそれより速く動いていた。

 叫び、大きく飛びすさりさえすれば、太陽が背にあった。まだ日は暮れていない。暖かな熱がエリザベスの背中を押す。よし、と一息おくと拍律が正常となった。間合いをとった。私は生き永らえている、と少女は実感する。死ななかったのだ、と。

 一方、虎は影にいる。当然だろう、とエリザベスは思う。吸血鬼は日の下では生きてられない。だから、日が沈んでいない今はまだ自分に有利に働く。虎は影の中でしか生息できない。勝てる、と認識を新たにする。グ、ル、ル、ル、と虎の呻き声。足を動かし、ゆっくりと左右に行ったり来たりしたりする。誘っているかのような敵の振る舞いには、しかし、応じない。

 今は前に出ず、あえて距離をとる。エリザベスは武器を二つ持つ。一つは銀鎖を縫いこんだ長い布で、これはモーアガケジグモの腹からとりだした網玉をほぐしたものを編みこんであり、波紋を流すことで形状を自在に変える。元々は服に波紋を流し込むための工夫から生まれたもので、製作者でもある後方支援を担当する波紋使いは「キリフ」と呼ぶ。エリザベスは固有名詞には興味がないから、単に「マフラー」と呼ぶ。実際、波紋を流すと冬でも暖かく、待ち伏せのときなどは体温調節に役立っている。

 エリザベスは首に巻いたマフラーをといた。すると、長い黒髪がさらりと肩に流れた。途端、マフラーがふっとその先端を失う。

 見つめていた虎が一瞬でその意味を悟って、飛ぶ。重厚な身体とは思えないほどの俊敏さで、奥に引っ込む。それまで虎がいた足元の枯葉がバッ、と舞う。マフラーがまるで鎖鎌のように動いたのだ。先端に縫い付けられた銀鎖は分胴として機能し、さらには波紋の伝導率を高める役割を持つ。

 そして、エリザベスは全身を回転させて、マフラーを再度振るう。今度はさらに速い。シュ、と鋭利な刃物が物質を通り過ぎる音が立て続けに響く。シュ、シュ、シュと。

 辺りの木々の幹にうっすら光が斜めに差し込めたかと思うと、何の抵抗もなく通り過ぎたマフラーの切り口に沿って、滑り落ちていく。

 エリザベスは、まず森によって遮られた日光の量を増やすことを選択したのだ。エリザベスは軽やかに崩れ落ちてくる木と木の間をすり抜けると、一番、太い幹に軽やかな着地を遂げる。途端、薄暗かった世界が真っ赤に染まる。一切がオレンジ色に輝いて、エリザベスは走り出す。木はまだ倒れきってはおらず、それだけに地上にいる虎に目隠しとして意味をもつのだ。階段を登るが如き感触が重力によって変化していく。頃合をみて、跳躍した。木が真横に倒れた。どどん、と地を揺るがすような轟音と、バサバサ云う枝葉。空中を飛ぶエリザベスは恐らく虎がいるであろう地点にめがけて、マフラーを振るった。その距離、実に8メートルと見る。存分に間合いだ。